2015年6月18日木曜日

数学の威力:驚異の暗号(2011.1.6)


 マーチン・ガードナーの「aha Gothaゆかいなパラドックス1」に、
別の宇宙空間から地球にやって来た生物が地球の膨大な情報を持ち帰るのに1本の棒に1箇所だけ印をつければ足りると語り、地球人がビックリする話がある(9 驚異の暗号[1])。
 しかし、そのからくりは単純明快である。数学の威力をまざまざと見せつけたこの話にすっかり感心した私は由来、世界中の真理を1点の印に篭められないかと希うようになった。

‥‥それから25年が経過し、2010年の夏、その印が手元に届けられた。

        柄谷行人『世界史の構造』。

その書物には次の言葉が何度も登場した――「交換様式」「抑圧されたものの回帰」
1991年にソ連が崩壊したとき、その意味をめぐってロシア革命にさかのぼって「失われた70年」が語られた一方、これは近代自身の意味が総体的に問われているのだとしてフランス革命にさかのぼって200年の歴史を問う人たちがいた。
これに対し、『世界史の構造』は、これを農業革命の1万年前にさかのぼってその意味を問い直そうとするものだった。その際の印が「交換様式」だった。
数学においてはよく起こることだが、問題が極めて困難なとき、人類はそれまでとはちがった新たな方法が要求されていることを理解し、それを見出してきた。その結果、この新たな方法はその問題の解決が必要としたものよりもはるかに実り多い、適用範囲の広いものとなった。アーベル、ガロアの貢献は5次方程式を解くという個別の問題を完全に解いたばかりではなく、方程式の解法を超えた数学全体に新たな基本的な概念すなわち群の概念を与えたことにある(デーデキント「数について」(岩波文庫)の訳者河野伊三郎解説)。
ロシア革命の最大の謎は、ソビエト政権がなぜ70年しか続かなかったのかにあるのではなく、当時、「3日以上持たない」(ジョン・リード「世界をゆるがした十日間」(岩波文庫)上123頁)と言われた超劣悪な条件下での未熟児のソビエト政権がなぜ3日を遥かに超えて存命し得たのかにある(その誕生の謎が解けて初めてその終焉の意味も理解できる)。
この極めて困難な問題は、これを解くのに人類にそれまでとはちがった新たな方法を要求した。柄谷行人の貢献は、ロシア革命という個別の難問を農業革命の1万年前にさかのぼって解こうとしたばかりではなく、それまでの「生産様式」という概念に代えて、世界史全体に新たな基本的な概念すなわち、「交換様式」の概念を与えたことにある。



[1] その内容は→Here

なぜ数学か(2001.10.23)


                                            柄谷行人

 数学を勉強する意義は何か、という議論がありました。それは自然科学や経済学その他で数学を使う人たちは別として、将来的に数学と縁がなくなる人たちが、数学をやる意義があるのか、ということです。

 ある、と私は思います。ただ、その前に、数学を量的なものと見なす考えを捨てないといけない。数学は本来的に「関係」を扱う学問です。量はその一つにすぎない。

 たとえば、ジャンケンポンというものが日本にあります。それに対応するものが外国にあるかどうか。私が確かめたかぎりでは見つからないのですが、どこでも可能だと思います。実際、ジャンケンポンで大事なのは、グー・チョキ・パーという指の形ではなく、たんに「三すくみ」の関係だからです。だから、グー・チョキ・パーのかわりに、どんなものでも代入できます。そういう規則が約束されてあるなら、頭でも足でもジャンケンポンができるのです。

 人はグーならグーという形にこだわり、そこに意味があると考える。つまり、それは石である、と。しかし、グー・チョキ・パーという恰好など、本当はどうでもいい。それらがおかれる関係(構造)が大事です。

 そのような構造を考えたとき、はじめて、グーやチョキがたんに任意のものだということがわかります。要するに、特に数学的思考とはいうべきものはない。「関係」を考えることなら、すべて数学的である。言語体系も政治的組織も精神病理も、それが関係の形態であるかぎり、数学的に扱えます。その意味で、数学的でないなら、物事を考えることにはならないでしょう。

 しかし、現にグーやチョキがなかったら、「関係」(構造)も存在しないはずです。経験的に個々のものがあるからこそ、「関係」が見いだされるのではないのか。そういう問いが、逆に出てきます。

 本当は、哲学の問題は、次のような問いから始まったといっていいと思います。それは、物があるというのと、関係があるということは、同じなのか、という問いです。たとえば、グー・チョキ・パーはそれぞれ「在る」わけですが、三すくみの「関係」そのものは、それと同じように「在る」といえない。では、その「在り方」はどう違うのか、―――。

 この問いに対して、プラトンは、「関係」は、感覚的なものと区別されるイデアとして、イデア界に在ると考えたわけです。今そんなふうに考える人はいないけれども、この区別そのものは残ります。「関係」は、物があるというのと違ったふうに、存在する。あるいは、それは無であるともいえます。なぜなら、それはどこにも存在しないからです。

 というわけで、数学、というより「関係」のことを考えると、誰でも「哲学的」になってきます。逆に哲学というものは、プラトン以来、つねに数学と関係しているのです。

 たとえば、デカルトというと、皆コギトとか神の証明とかしかいいませんが、彼は解析幾何学(つまり、図形を数の組み合わせ(コーディネート)として考えた)を発明した人です。そこで、図形が数に転化したのはこの時からです。

 ところで、このとき、はじめて、実数という考えが出てきます。図形において連続した線が点の集まりであるとすれば、その無数の「点」は、すべて数と見なされます。しかし、自然数や有理数だけでは、足りないのです。そこで、数は無理数から超越数(πなど)にいたるまで、一挙に拡張されます。われわれはそれを当たり前だと考えていますが、デカルト以前には考えられなかったのです。集合論の始祖カントールは、無限まで数として扱おうとしました。そこから、さまざまなパラドックスが生じるようになったわけです。要するに、数は歴史的に「発明」されてきたのです。

 たとえば、数えること(序数)と、存在するものと見なされる数(基数)を扱うようになることの間には、大きな飛躍があります。(たとえば幼児は数の足し算をするとき、最初から数えなおします。)この飛躍は、哲学的には大きな問題です。二十世紀の哲学者・哲学者、フレーゲ、フッサール、ラッセル、ゲーデル、ウィトゲンシュタインらは、皆、算術の問題を考えました。簡単な算術にこそ、最も難解な問題がひそんでいるのです。

 トポロジスト(位相幾何学者)は、コーヒーカップとドーナッツの区別がつかない連中だという冗談がありますが、赤ん坊は、先ず、母親を、二つ穴(目)がある形として認知するらしいです。そして、徐々に、顔を認知する。その意味で、位相幾何学とは、対象認識の段階から、幼児段階まで遡行することです。だから、幼稚と見える段階ほど、実は難解なのです。

 子供がすでに出来上がった数学を習うとき、それまでに、人類が苦労して形成した成果だけを、暗記することになります。ところが、算数、数学がわからないという子供は、むしろ、数学の諸問題に直面しているともいえるわけです。数学の系統発生を、個体発生的に経験するわけですから。そのとき、何の苦もなく前進する子供が優秀だということにはならない。むしろ凡庸です。

 たとえば、分数の足し算ができない子が多い。これは、比例を分数、そして数と等置することが難しいからです。普通、分数の足し算は分母をそろえてやれ、ということを覚えれば何とかなります。しかし、それはわかっているかどうかとは別です。

 たとえば、1対3という比例はわかりますが、なぜそれが/3と等しいのか。そもそも/3の「1」は何であるのか。さらに、それが0.3333333‥‥であるというのは、どういうことか。しかし、これらは数学の歴史においても、難しかったのです。

 私は、X>5という不等式を習ったとき、目がくらむ思いをした覚えがあります。Xは5.000000000000000000000‥‥でいいわけですが、そのとき、「無限」に出会ったわけですね。ところが、それを何とも思わないで先に進める子が「できる」ということになります。

 そこで、私は、算数、数学が「できない」人こそ、あるいは「躓く」人こそ、数学の諸問題に直面しているのだと考えるようになりました。たぶん、数学者とは、この「躓き」を一方でたやすく乗り越えると同時に、それにこだわる人のことだと思います。

 くりかえすと、特に数学的思考とはいうべきものはない。「関係」を考えることなら、すべて数学的である。しかし、人が身につけるべき思考というのは、人々が当然のように片付けることに、なぜか、とこだわることではないか、と思うのです。

 私自身は、こういうことを教えてくれる先生に出会いませんでした。出会っていたら、大分違っていたでしょう。数学が「関係」を扱う学問だということ、たとえば、恋愛の三角関係すら数学的に扱えるのだということを知っていたら。

 数学の教育者は、基礎的な疑問に対応できる人でなければならず、その人自身、数学にかぎらず、どんなことにも基礎的な疑問をもち、考えている人でなければならない、ということになります。もちろん、そんな先生はいません。

 だから、ニュースクール()は、学生よりもむしろ、先生がそういう疑問に出会いつつ考える場所ではないか、と思うのです。

)当時、設立準備をしていた教育関係のNPOの名称。

なぜ数学を学ぶのか(1996.11.30)

 柄谷行人が座談会「20世紀の批評を考える」(新潮96年5月号)でこういうようなことを言っていた。
「本当の形式主義者は、実はみんなが共有している自明な形式というものを疑ってかかる、その意味で同時に形式主義の批判者なのだ。構造主義でも同じことで、真の構造主義者は、みんなが共有している自明な構造を疑ってかかる構造主義の批判者なのだ」

このことは、こういう風にも言うことができる。
マルクスはヘーゲルを批判するためにヘーゲル主義者になったのだ(或いは、ヘーゲル主義者であり続けたのだ)。

だから、我々も、一度は本気で、

数学を批判するためには、数学主義者にならなければならないし、

インターネットを批判するためには、インターネット主義者にならなければならない、

バーチャルを批判するためには、バーチャル主義者にならなければならない。

NPOを批判するためには、NPO主義者にならなければならない。

そのことを恐れていては何もできない。

近況報告 ----数学への目覚め----(1996.11.10)

よくあることだが、家が貧しく、体力に自信がない子どもにとって、数学(算数)が心の支えとなる。なぜなら、例えば国語だったら、作者は一体ど んな気持ちだったのでしょうなどというどうにでもなるようなあやふやな問題が出されたのに対し、数学だけは難しくとも一義的に明快な答えを導くことができるから。数学の難問だけは、金持ちのボンボンだろうが、腕力のあるガキ大将だろうが、明快な答えを出せるやつに対して頭が上がらないから。

 私もそうした人種のひとりだったらしく、小学校に入学して以来、数学は私にとって殆ど唯一の心の支え=神話だった。
ところが、小学校3年のとき或る事件が起き、由来、その数学神話が崩れてしまった。

----たまたま、クラスでとんち遊びをしていたときのことだった。或る女子がこういう問題を出した。
「1+1は?」
みんなは41とか適当な答えを言っていたが、やがて、その子はこう答えた。
「答えは1です」
みんな、ぽかんとして聞いていた。その子は続けた。
「なんでかっていうと、それは、ここに粘土の固まりが1個あります。こっちにも、粘土の固まりが1個あります。両方の固まりを合わせれば、答えは1個の粘土になります。だから1+1=1です」
なあんだという声があがった。

しかし、私は、彼女の答えにビックリした。反論の余地のないくらい論理的に完璧に正しい説明だったからだ。

 その日以来、私は自分は正しい数学をやっているという確信が持てなくなった。自分がやっているのは、1+1=2と書けば単にテストで◯をもらえるからではないかという疑念に襲われたから。

そこで、グラグラするような衝撃に襲われ、自分は数学で確固たる真理を学んでいるのだという幸福な自信を 失ったまま、半ば不安と半ばうつろな気持ちで、ただ肩書を手に入れるためだけに、受験のためだけに引き続き数学をやってきた。 この屈折した屈辱の感情は解かれることなく、ずっと続いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 このように、真理と肩書とに分裂した私の心は、その後25年経ってから回復の一歩を見い出すことができた。それが33歳のころ読んだ数学者遠山啓の「無限と連続」という本だった。

 この本の中か ら、私は、カントールの無限集合の足し算が、まさに私をずっと不安に陥れてきた1+1=1の世界を実際に証明するものとして存在すること、そして、数学においては、 1+1=2となる世界も1+1=1となる世界もともに認められるのだという画期的なことを教えられた。

 この経験は一体何を物語るものだろうか----その謎めいた経験が私を数学に惹きつける。
恐らく、我々にとって「世界」はないのであって、あるのは「世界観」とそれに基づいた認識・経験だけなのだ。
だとすれば、ゲーデルの不完全性定理()が示すように、今、我々を支配している「世界観」の正体とは何かを改め て徹底的に再認識する方法のひとつとして、数学が今なお極めて有効な武器であることを感じている。それが、非力を重々承知の上で、なお引き続き数学に執拗 にまとわりつきたがっている私のスタンスである。


) チェコ生れの24歳の数学者クルト・ゲーデルが1930年に数学的に証明した定理で、これによって「いかなる体系もその体系の中では決定不可能な命題が存在する」ことが証明された。
つまり、体系なるものは現実を離れてそれ自身で自立することが不可能であることが証明された。この定理に対し、オッペンハイマーは「人間の理性一般における限界というものの役割を明らかに示した」と評した。

数学の勉強について2(1995.12.20)

コメント
 前の手紙のときもそうだったが、私は、数学との取り組みに難航し、難破し、思わぬ目にあったあと、ようやく隊列を整えて、新しい出発ができそうになると、決まって、このことを山口昌哉さん()に手紙を書いた。このときもそうだった。
 そして今、また、今の心境を彼に手紙に書きたい気持ちでいる。

) 1925〜1998年。京都生まれ。京都大学数学科卒業。京都大学工学部教授、理学部教授、理学部長をへて同大学名誉教授。理学博士。専攻は非線形数学、ことに非線形偏微分方程式の数値解析。生物科学や社会科学への応用にも関心が深かった。父親は日本画家の山口華楊。

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山口昌哉 様

 先生、ずっとご無沙汰しています。お変わりありませんでしょうか。確か、昨年の「現代思想」でしたか、女性科学者の米沢さんとかと対談しているのを見まして、元気でいられるのだなと思いました。
 私が(勝手ながら)この間、自分から先生に連絡を取らなかったのは、単純な理由でして、ここしばらく数学をやる気がしなかったからです。いくら数学を やっても、どうしても数学という言語ゲームに馴染むことができず、知識は増えるかもしれないがちっとも認識が深まる気がしなくて、その不毛感にずっと苛ま れ続けてきたからです。

 ですが、反面、この間、一瞬たりとも数学のことを忘れたことはなく、文学をやって漱石を読んでいても、哲学をやってカントを読んでいても絶えず数学の世界とのかかわり合いをずっと自分なりに考えてきたつもりです。いわば、再び、数学を攻略するために、今度は不毛ではなく、数学を通じて意義ある認識に到達 するための準備を文学や哲学を通じて行っているつもりでした。それでようやく、来年の春くらいには、数学の勉強を再開しようと思う気になりました。

 今日、お手紙を差し上げたのは、私の近況報告だけではなく、実はちょっとしたお願いがあったからです。それは、先生もご存知の埼玉にある「自由の森」学園に、東京に来られた折り、お時間があるとき、是非、この学校でお話(というよりお喋り)をしてほしいというお願いがあったからです。

 実は、こんなこと、私自身さえ半年前には思っても見なかったことのです。それが、なんでこんなことを言うようになったのか、その訳は、4年前の私の店じ まいから、数学への行き詰まりなどまで話が及びますが、かいつまんで言えば、昨年、私がこのニッポンに愛想が尽きて、アメリカで新しい仕事を見つけようと 当地を何度かうろつき回る経験をして帰国したあと、この学校に行きましたら、なぜかものすごくここが新鮮に見えたからなのです。
 なぜ新鮮に見えたか、それも簡単には説明し切れませんが、ひと言で言って、この学校が本気で「自由と自立」を目指して設立された学校という、日本では貴重な性格を持った学校のため、本質的には「ホンネ一重構造」でしかない日本社会にあって、ほかには見られないような「非常に活発で非常に真摯な」活動の側 面が見られたからです。たとえ、この学校の10年間が失敗と誤りの連続であったとしても、それを上回るような貴重な周縁としての価値を今なお持っているよ うに思えたからです。

 ところが、この学校はこういう貴重な場でありながら、実は今いろんな意味で疲弊していまして、(かつて理想の虜になっていた人たちの)いわばシニシズム の食い物にされようとしている感じなのです。それで、私は思わず、ここを何とかしたいと勝手に思いまして、ここ数カ月、年甲斐もなくビラ(ここに同封しま した「感想」というやつです)を書きまくってはバラまいたり、自由の問題を考える自主講座を開いて、ゲストに柄谷行人さんや小森陽一さんに来てもらって、 自由について語ってもらっているのです。そして、いずれ、この自主講座のゲストのひとりとして、先生にも来てもらえたらいいなと思ったのです。というの は、私にとって、先生というのはいつも(数学というシステムの)周縁に立って生き続けてきた人のような気がして、或る意味では最も切実に自由というものを 身をもって考え、実践してきた人のように思えてならないからです。そこで、私は一度、先生自身の生き方というものを「自由」という言葉を鏡にしてじっくり 語ってもらえたらすごくうれしいと思ったのです。そのようなお話は、私が数学を再開する上でも、とても意義深いものが示唆されるような気がしてなりません。

 もちろんお忙しいと思いますので、ご無理は申し上げません。もし上京の折りに時間があったときで結構なのです。ご検討しただければ幸いです。

寒さが厳しい折、お体を大切に。和子さまにもよろしく。さようなら。
この手紙を、「自由の森の浅田彰」みたいな少年に託してお渡しします。

数学の勉強について(1993.12.15)

コメント
91年9月、私は40歳の誕生日を区切りに店じまいをし、ニセ・チンピラ学生として数学の勉強を始めた。
 そこでまず出入りしたのが応用数学の甘利俊一さんのゼミだった。他方、京都の森毅に振られたあと、たまたま彼の友人でやはり応用数学の山口昌哉さん()と知 り合い、彼が上京する度に会って、いろんな話を聞かせてもらった。その中で、一番印象に残っているのが次の言葉だった。
「ねえ、柳原さん、数学の勉強って、やっぱり独学ですよ」

私は、やっとめぐり合えたと思った数学の師から、 数学を学ぶ原点について、再び振り出しに押し戻された思いだった。
 
その原点に戻って取り組んだものの、しかし、私の数学との取り組みは難航し、ちょっちゅう難破し、その都度思わぬ目にあった。そして、2年後に、もう一度隊列を立て直して、数学と取り組む腹が決まったので、その旨を山口さんに書いたのがこの手紙です。

)1925〜1998年。京都生まれ。京都大学数学科卒業。京都大学工学部教授、理学部教授、理学部長をへて同大学名誉教授。理学博士。専攻は非線形数学、ことに非線形偏微分方程式の数値解析。生物科学や社会科学への応用にも関心が深かった。父親は日本画家の山口華楊。
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 山口昌哉 様 

 山口先生、小森さん宛ての手紙で書きましたように、私はこれからニセ学生に出来るかぎり専念します。そして、世に言う《数学》、私にとって近代の 《言語ゲーム》のひとつにすぎない《数学》を自分なりに叩きのめすために、 それを目指してやれるだけやろうと思っています。それはまさしく生意気で、 可愛い気のない「破廉恥、無節操、無責任」な心構えかもしれません。
 しかし、私はこういうふうにしかやれないと自分でよく分かりましたので、 今後はもう、お行儀よく、おとなしく振る舞うことはやめました。
 そして、今後、この《言語ゲーム》としての数学を学ぶとしたら、それは、 専らこの《言語ゲーム》としての数学の規則を破るためにだけ、その規則を学ぶ積りです。

 それで、私は、この「数学の規則を破るためにだけその規則を学ぶ」ために 、ちょうど『古怪』の宮沢賢治や中上健次に相当するような作家と近代小説の枠の中で抜くぬくぬくと小説を書いている作家どもをきっちりと区別したいよ うに、『古怪』の岡潔やそれに匹敵する数学者と、《言語ゲーム》としての数 学の規則の中でぬくぬくと数学しているだけのそれ以外の連中とをやはりきっちりと区別したいのです。

 そこで、また厚かましくも、岡潔に匹敵するような数学者(例えば、リーマ ン)の著作を紹介していただければとお願いにあがった次第です。またお会い して、色々御教示いただければ幸いです。相も変わらぬ「破廉恥、無節操、無責任」ぶりで失礼します。

敬 具

甘利俊一ゼミのメンバーへの手紙(1994.1.9)


コメント

 91年9月、私は40歳の誕生日を区切りに店じまいをし、ニセ・チンピラ学生として数学の勉強を始めた。
 そこでまず出入りしたのが応用数学の甘利俊一さんのゼミだった。しかし、私のような得体の知れないチンピラ学生はゼミのメンバーには気持ちわるかったよ うで、彼らの殆どからは、さり気なくあしらわれた。だが、このゼミには、企業や外国からもいろんな人が勉強に来ていた。その中には、確かに私に劣らずケッ タイな連中(但し、私と違って極めて優秀であった)がいて、幸い、彼らと親しくなることができた。
 その後、私はゼミを続ける自信を失い、三四郎の池でうろついた挙げ句、インドあたりに流れてしまったが、彼らも企業に戻ったり、別の大学に行ったりで、離散してしまった。
 この手紙は、そのうちのひとり(IBMの研究所から来ていた人で、極めて優秀なのに、昼飯時に語る彼の話は、決まって霊界に関することだった。それに対する興味の入れようは並大抵でなく、もし彼に2回の人生を与えてあげられるなら、この霊界に関する研究できっと抜群の成果をあげ得ただろうと思わせるほど迫力があった)に宛てて書いたものです。

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 この1月で、甘利ゼミに初参加して以来3年が、事務所を店じまいしてから2年半近くが経ちました。で、この間の成果は?と問われれば、それは散々な目に遭ったとしか言いようがありません。数学の理解は3年前とちっとも変わっていない、否、むしろ低下したくらいで、その意味で無残な3年間でした。

 だが、だいたい私のやり方というのは恐ろしく不器用で、初戦は散々に惨敗するのが常なのです、受験にしても、恋愛にしても、結婚にしても。しかし、その散々な目に遭ったお陰で、はじめて相手の何たるかが身に沁みて少しずつ分かるようになるのです。

 もう少し、具体的に話しましょう。
 当初、甘利ゼミに参加して、何とかゼミの中身が理解できるようになろうと懸命に努力したのですが、どうしても分からず、そこで、一歩後退して、学部と大学院の授業を理解できるようになろうと、朝6時に起きて満員ラッショにもまれながら1限から授業にでたのですが、その努力の甲斐もなく、ちっとも分かりはしない。
 
 それで、やむなく、1、2年の授業レベルのことから理解するしかないと観念して、入門書を読み、放送大学の授業を聞きました。しかし結果は凶で、やっぱり釈然としなかったのです。何だか、とにかくルールを教えこまされているだけという感じで、明晰な理解という実感が全くわかなかったのです。のみならず、数学の書物を読み進んでいくと、その抽象的で索漠とした数学の世界に、頭から冷や水を浴びせ掛けられるような仕打ちを受け、殆どノイローゼにならんばかりに気が滅入りました。この体中の血が凍えるような、身が凍りつくようなそらぞらしい空虚感に耐えかねて、ついに数学書を読み続けていく気力を失いました。
 
 そこで、作戦を根本的に変更せざるを得ず、この行き詰まった根本原因はきっと数学が実在と無関係な単なる形式的なゲームにすぎないことにあるのだと思い、そこで、自然という実在をきちんと相手にする物理をやれば、きっともっとピッタリとした明晰な理解が得られる筈だと考え、数学を止め、物理に専念することにしました。しかしこれまた、全然うまく行かなかったです。物理の入門書を読み、放送大学の授業を聞いても、ちっとも釈然としなかったのです。それは恐らく、入門書も放送大学の授業もそこで取り上げられる物理的実在は、いずれもすでに物理的に整理されて、加工された形のものでしかなく、我々の目の前に広がる不思議に満ち満ちた深遠な自然的実在を少しも感じさせるものではなかったのです。第一、著者や講義する学者が、例えばアインシュタインのような実在する自然に対する深い驚嘆を感ずる能力を、すっかり失っているように思える連中ばかりでした。そしてもっと驚くべきことに、その連中は、数学という体系を殆ど物理の自明の言葉であるかのように平気でどんどん使っていくのです。そのため、途中から、これじゃあ物理も数学という形式的なゲームと殆ど変わらないじゃないかと、とくに量子力学の講義を聞いて思いました。私には、彼らの自然的実在に対する余りにも鈍感な無神経さと、数学という形式的なゲームに対する余りにもナイーブな信仰に、半ば呆れ、半ば腹立たしく思いました。
 
 こうして、実在と真正面から取り組む筈の物理に対しても、これも結局は或る種のゲームではないのかと、ルールが精緻に決められた込みいったゲームとして成立しているシステムにすぎないのではないかと、そして連中はこのシステムに立て籠って、単にお喋りしているだけではないのかという失望に近い思いを抱いて、物理にも裏切られる結果となったのです。
 
 ここまで後退戦を余儀なくさせられて、しかもそこで展望を全く与えられず、完全に行き詰まった私は、そこで、もはや普通に授業や入門書を真面目にお勉強することを止めて、こうなったらヤケのヤンパチで目茶苦茶にやるしかないと、つまり不良になるしかないと観念しました。その当時、唯一の救いが小平邦彦の次のような言葉でした。

数学が明晰判明に分かるというとはどういうことだろうか。数学とは森羅万象の根底に厳然と実在する数学的現象を研究する学問である。だから、数学が分かるとは、その数学的現象を『見る』ことである。『見る』とは或る種の感覚によって知覚することであり、私はこれを数覚と呼ぶ。数覚は論理的推理能力とは異なる純粋な感覚で、聴覚の鋭さと同様、頭の良し悪しとは関係ない。だから、数学が分かるとは、数学的現象を感覚的に把握することであって、論理だけではどうにもならない。結局、数学が分かるとは、すなわち自ら体験することである。

 当時たまたま宮崎駿のアニメ「紅の豚」の宣伝を見て、よし、オレはもう行儀よくお勉強することは止そう、あとはもう数学的現象を感覚的に把握するという数学的体験を積み重ねるしかないと、そして、その方法はとにかく「紅の豚」のように行こう、つまり全身全霊で森羅万象と交わりさえすれば、何をやっても数学なのだという恐ろしく能天気な心境で行こうと、新規まき直しに出ることにしたのです。

 その結果、授業に出なくなり、図書館でキネマ旬報や群像などの好きな映画や文芸の雑誌を読み耽ったり、そのうち、インドに行ってからは、建物の中にいるとあたかもシステムの中に閉じ込められているような圧迫感に捉えられるので、それで、殆どを野外の三四郎の池で寝そべって過ごすようになりました。こうして家にいるときは、田んぼや畑の道を歩き回り、大学では、三四郎の池で寝そべるという生活が続き、殆どホームレスのようなスタイルが身につくようになりました。
しかし、このホームレスのスタイルこそお前に最も相応しいやり方だと確固たる支持を与えてくれた人物が紛れもない宇宙人の宮沢賢治と岡潔だったのです。
 

 というのは、「数学が分かるとは、森羅万象の根底に厳然と実在する数学的現象を感覚的に把握することだ」という小平邦彦の言葉が既に、数学者とは或る種の宇宙人であることを示唆しているように、私にとって数学が分かるとは宇宙人であることを自覚するプロセスにほかならなかったのです。紛れもない宇宙人である宮沢賢治と岡潔から私は、宇宙人であることを自覚するプロセスを教えられ、そのひとつがこのホームレスのスタイルであることをきっぱりと教えられました。賢治は言う。


……われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨大な力と熱である…
 風とゆききし雲からエネルギーをとれ

そのようなホームレスのスタイルを続けていくうちに、地球上で最も宇宙的な生き物である植物の生き方に益々惹かれるようになり、木になりたいという激しい願望に捕われました。
 こうして、ここ3年間のうち、真面目にお勉強したのは初めの1年半だけで後半は、豚のように能天気になって、何をやっても数学なのだとシナリオを書いたり、そこいら中歩き回っていました。そして、無店舗営業の私の下にたまたま厄介な著作権の紛争の仕事がバタバタと入ってきて、人の嫌がるようなややこしい紛争が大好きというへそ曲がりの性分を発揮して、ここ1年は、この厄介な著作権の仕事に明け暮れました。


 しかし、殆どこじつけでしかない筈なのに、「いやいや、このクソ厄介な著作権の紛争の処理が、必ず数学的体験のひとつになる筈だ」と断固たる能天気な確信を抱き続けていたのです。事実、数学の勉強の中で掴んだ「失敗しながら前進する」というメソッドは、紛争の処理という仕事に遺憾なく威力を発揮しました(それは、数学の勉強で連日たたきのめされてメタクソ自信を喪失していた私に、おっ、まだオレにも力を発揮できるものがあるのだと自信回復の貴重な機会を与えてくれたのです)。


 ですから昨年末、この著作権の仕事を8割方整理して、再び、文字通り、数学に戻ろうと思ったとき、数学再開に全く不安はありませんでした。何一つ、数学のお勉強をやらなかったにもかかわらず、恐ろしく自信だけはついたのです。もちろん今後、数学という形式的ゲームの様々な規則を覚えていかなければなりません。しかし、今度はその規則の存在理由をいちいち明らかにして、これを納得しながら一つずつ前進する積りです。例えば、私のとって『関数』というのは最大の謎のひとつです。しかし、先日「関数とはもともと速度のことだ!」と分かったとき、はじめて『関数』の具体的イメージが納得がいったのです。と同時に、それは『速度』という得体の知れない概念の謎が解けることでした。このように、今度はいちいち規則の起源を暴いていく積りです。
 

 そして、行く行くは、これらの規則をぶち壊したい、或いはせめてこれらの規則をぶち壊される場面に立ち会って、その意味をしっかりと理解したいと願っています。我々の科学文明の基礎をなす数学というゲームの規則が全面的にぶち壊される場面というのは、同時に資本主義の大転換の場面でもあると思うのです。私は、その決定的な場面にしっかりと立ち会いたいと念願しています。

さようなら。