2015年6月17日水曜日

子どもたちはなぜ数学を学ぶのか:権力や権威ではなく、自分の頭で考え判断する力を身につけるため(2015.6.22)

先週、先々週と、運営ミーティングで、数学ができない子どもたちの対策が話題になりました。
聞いていて、これはただの補習という問題ではないのではないかと思えてきて、感想を書きました。

というのは、数学は学問の基本ですから、数学の学び方について考えるということは、学問全般の学び方に通じる意味があるからです。

この運営ミーティングでは、
「どのようにして数学を教えるのか(学ぶのか)」
がテーマでしたが、そのためには、まず、
「なぜ数学を学ぶのか」
を考える必要があると思いました。なぜなら、なぜ数学を学ぶかが明確にならなければ、数学のなにを、どのように学ぶかも明確にならないからです。

この点、私が数学を学ぶ理由の1つは「人々が当然と思い込んでいることに、改めて、自分の頭でなぜ?と問い、自分なりに納得できるものに到達するため」です。つまり、自分の頭で考え、判断する力を身につけるためです。

私は、福島から避難してきた子どもたちにとって、このことはものすごく重要なことだと考えます。なぜなら、彼らは、それまで信頼して大丈夫と思われてきた科学者、専門家たちから「ニコニコ笑ってる人には放射能は来ない」「健康に直ちに影響はない」と言われ、それまで通り信じていたら、あやうく一生を台無しにするような目に遭ったからです。
亀や鶴みたいに万年、千年生きたとしても経験するようことのないような、九死に一生を得るような大変な目に遭った子どもたちにとって、最小限の願いとは、二度と同じ目に遭わないことではないでしょうか。
しかし、そのためには、単に、汚染地から脱出するだけでは足りません。汚染地の人々をマインドコントロールして彼らの行動と命を縛りつけている権力や権威ある人たちが繰り出している様々な教えからも脱出する必要があります。
それは、或る意味で「汚染地から脱出する」以上に難しいことです。自分の頭で考えるという、それまで殆ど経験してこなかった生き方を身につけることだからです。でも、それをしなければ、権力や権威ある人たちの教えから脱出する(自由になる)ことは困難で、(沖縄の人たちが沖縄戦で日本軍の教えに命を脅かされたあと、戦後、米軍の教えに命を脅かされ続けているように)また再び、どこかで同じような目に遭うのは必至です。

そして、この「権力や権威ではなく、自分の頭で考え判断する力を身につける」最良の方法(の1つ)が、数学を学ぶことだと思います。

数学者の遠山啓はこう言いました。

「直角三角形に関するピタゴラスの定理は経験的には既に古代エジプトで知られていた。しかし、ピタゴラスが偉いのはそれを証明してみせたことである。証明するまでは、たとえどんなに偉い王さまであろうともそれを主張することは許されない。他方、たとえどんな馬の骨でも証明さえできれば認められる。これが数学そして科学の精神である。」

これを読んで、「証明」というのがいかにものすごいことか、目からうろこでした。そのとき「もし世界史に古代ギリシャがなかったら、世界はすべてアジアだった。その後の文明社会にはならなかった」という言葉にも合点がいきました。 「証明」というものがいかにケッタイなもので、反権威的、反権力的ばかりか、反共同体的なものだと分りました。
なぜなら、古代ギリシャがすごいのは、経験的には古代エジプトで明らかであったものをそれを真実であると主張するためには「証明すること」つまり説明責任を果たせと求めたからで、古代エジプトのように、王の権威でもってこれを真実をせよと命ずることを認めなかったから。他方で、それは、どこの馬の骨か分からないような人物(ピタゴラス)であっても、それを証明できた以上、受け入れられたことです。
「空気を読め」とか「あうんの呼吸を理解せよ」というのも、実はある種の「権威」です。万人が誰でも分ることではないからです。「証明」の精神とは、こうした権威もすべて認めず、できるかぎり、誰にも理解可能なように説明することを求めることでした。

ただし、これを読んで、でも、実際の数学はちがうんじゃねえの?と首をかしげる人も多いと思います。
これはその通りです。今の学校で教える数学は、数学が発生し、だどって来た、ハラハラドキドキの緊張と不安と期待の歴史の要素をすべてそぎ落として、初めから何の矛盾も不安もない、それゆえ、ハラハラドキドキもない完成された体系として子どもたちに提供されているからです。
そのことは私たち自身が3.11原発事故で経験済みです。百年後、二百後にふり返ったとき、3.11原発事故は理路整然と語られる時が来るでしょう。しかし、今、この事故のさなかに生きている私たちは、それとは全く異質な、これからどうなるか分らない、毎日が緊張と不安と希望の模索の中を生きています。

数学の歴史も、過去の「毎日が緊張と不安と希望の模索の中を生きていた」時点に立ってみて眺めてみたら、全くちがう姿が見えてくる筈です。

例えば、インドで「ゼロ」が発明される前と後では、数学が飛躍的に変わりました。なぜなら、それ以外の地域では、その後もゼロという記号を考えることができないくらい、それは画期的な、まるで奇跡のような出来事だったからです。

或いは分数は発明されましたが、なぜ、このような数が発明されたのか。多くの子供たちは分数の計算でつまづきますが(実は大人も分数の計算がどうしてそれでいいのか分っていない。単にそう覚えこんでいるだけの人が殆どです)、それは分数は発明された瞬間(起源)のことを想像できないからだと思います。

古代ギリシャの「証明」の精神を具現化したのがユークリッドの「幾何学」でしたが、このユークリッド幾何学が 「証明する必要のない、明らかに自明な法則」(公理)の1つとして掲げたものが平行線の公理(一直線外の一点を通ってこの直線に平行な直線は一つあり,ただ一つに限る)でしたが、当初から、これって、本当に公理なの?という疑問があり、その疑問を考え続けてきて、約2千年後に、ロシア人によって、これは「正しくない。一直線外の一点を通ってこの直線に平行な直線は2本以上、存在する」という答えが出ました。
それは、それまでの幾何学を根本から変革する非ユークリッド幾何学の誕生でした。
同時にそれは、それまで、数学が暗黙のうちに大前提にしていたこと、つまり数学は現実の世界を抽象化したものである(現実の世界と対応関係にある)という大前提が崩壊する瞬間でした。
そこから、数学は過去の数学と断絶し、まったく新しい学問として再出発することを余儀なくされました。ここから数学の危機が始まりました。
この危機を乗り切るために、新しい数学が提案されました。それがヒルベルトというドイツの数学者で、彼は「数学とは現実の世界と対応関係に立つ必要はない。数学の目標は矛盾のない体系を作り上げることで、そこでは、これまでの点・直線・平面の代りに、机・椅子・コップなどと言い替えてもよい」と提案しました。
この提案に最も精力的に取り組んだのが、ハンガリーの「悪魔の頭脳」と称され、後にコンピュータの生みの親となった、若きフォン・ノイマンでしたが、彼が「矛盾のない体系」作りに励むさなか、1931年に、チェコの25歳の数学者クルト・ゲーデルによって「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことが証明されてしまいました(ゲーデルの不完全性定理)。
数学の最後の望みが証明できないことが証明された瞬間、数学の殿堂の壁が崩れ落ちました。この証明を知った日、ノイマンは自分の研究を講義する教室で「今日でこの講義はおしまいにする」と言いました。

この画期的な発明と殿堂の崩壊の繰り返しという「希望と絶望」「明晰と不安」が交錯するのが数学の現実の歴史です。これを頭に入れて、子どもたちは生きた数学を学ぶのが、「権力や権威ではなく、自分の頭で考え判断する力を身につける」ための王道ではないかと思います。
それをせず、数学の負の歴史(殿堂の崩壊)の面を隠して、あたかも完全無欠の理路整然とした体系として数学を教えることは、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマの負の経験を隠して、放射能の素晴らしさを語る放射線科学に似ています。欺瞞的であり、こんなのが退屈になるのは当然です。

かつて30代の半ば、それまで、矛盾しない合理的な体系が数学のエッセンスだと思い込んでいた私は「数学が矛盾しない体系を創ろうとすると必ず矛盾に出会う」ことを証明したゲーデルの不完全性定理の存在を知った瞬間、心臓が止まるほどのショックでした。
なぜ、こんなスゴイ定理を今まで誰も教えてくれなかったんだ!と。
あとになって、数学者が教えない理由が分りました、自分たちのやろうとしていることが不完全だ、不可能だなんて、破綻を証明したことなんか、商売道具を否定されたも同然で、とても取り上げられなかった、と。
そのとき、本当に面白いこと、本当に必要なことは、いつも注意深く隠されているんだと分りました。

数学者にとってどんな残酷なことであっても、本当に面白いこと、本当に必要なことを知らない限り、(テストで○をもらうというニンジンをぶら下げて頑張らない限り)それに夢中になって取り組むことはできないのではないかと思います。
本当に面白いこと、本当に必要なことは、生きた歴史の中に隠されている。数学もまた、過去のドラマチックな歴史を、あたかもその時点に自分が立ってみて、追体験できたら、きっと多くの子どもたちは、ハラハラドキドキ、こんなに夢中になれる体験はないと分ると思います。

まとまりのない感想でしたが、言いたいことは次です。

「福島を経験したあとに、これまでの通りの科学教育はあり得ない。そのエッセンスは数学に出る」
「数学を学ぶ目的は、権力や権威ではなく、自分の頭で考え判断する力を身につけるためである」

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