かつて、数学者の遠山啓はこう言いました。
「数学とはひねくれたむずかしいものではなく、その反対にバカバカしいほど簡単な事柄を根気よく積み重ねたものにすぎない。我々はひねくれるために数学を学ぶのではなく、もっと素直に、もっと大胆になるために数学を学ぶのだ」(※)
「数学とはひねくれたむずかしいものではなく、その反対にバカバカしいほど簡単な事柄を根気よく積み重ねたものにすぎない。我々はひねくれるために数学を学ぶのではなく、もっと素直に、もっと大胆になるために数学を学ぶのだ」(※)
(※)その実例として、
①.ツルカメ算などの応用問題
代数の方程式を使えばするすると解けるのにそれを使わせないで、わざわざひねくれたやり方で解こうとさせる。
②.因数分解
二次方程式の根の公式を使えばするすると解けるのにそれを使わせないで、かんを働かせて解こうとさせる。
「直角三角形に関するピタゴラスの定理は経験的には既に古代エジプトで知られていた。しかし、ピタゴラスが偉いのはそれを証明してみせたことである。証明するまでは、たとえどんなに偉い王さまであろうともそれを主張することは許されない。他方、たとえどんな馬の骨でも証明さえできれば認められる。これが数学そして科学の精神である。」
言い換えれば、古代ギリシャがすごいのは、経験的には古代エジプトで明らかであったものをそれを真実であると主張するためには証明することを求めたことだった。古代エジプトのように、王の権威でもってこれを真実をせよと命ずることを認めなかった。あくまでも証明が求められ、その結果、どこの馬の骨か分からないような人物(ピタゴラス)であっても、それを証明できた以上、受け入れられた。
このように、数学の精神とは証明の精神です。権力や権威ではなく、証明して初めて受け入れられるやり方のことです。同時にこれは科学の精神です。
だから、現代科学技術の専門家と称する人たちが、「直ちに影響はない(だから、心配ない)」とか「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています。」とか語るのは、およそ科学の精神と無縁の言葉です。
もちろん、この科学の精神=証明の精神の喪失が、科学技術者たちの問題だけで済むのなら「どうぞ、勝手にやって下さい」です。
だから、現代科学技術の専門家と称する人たちが、「直ちに影響はない(だから、心配ない)」とか「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています。」とか語るのは、およそ科学の精神と無縁の言葉です。
その姿は、マックス・ウェーバーが指摘した(彼が直接言及したのは社会科学ですが)科学は中世の神学から転化した「新しい神学」であり、今や科学者は神学的真理を伝承する坊主である、を思い起こさせます(山之内靖「マックス・ウェーバー入門」224頁【岩波新書】)
もちろん、この科学の精神=証明の精神の喪失が、科学技術者たちの問題だけで済むのなら「どうぞ、勝手にやって下さい」です。
しかし、彼らの仕事こそ、地球生態系の破壊や多くの人体の健康被害といった形で私たちの運命まで否応なしに巻き込みむものです。それは、日本経済の繁栄といった彼らの主観・動機がどうであれ、そんな主観とは関係なしに、客観的に過酷な影響を及ぼす仕事なのです。だとしたら、私は――こんな非科学的な科学の暴走によって、私たちと地球が脅かされるのかと思うと、心の底から憤りが沸き上がるのを禁じ得ません。
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