2015年6月18日木曜日

なぜ数学か(2001.10.23)


                                            柄谷行人

 数学を勉強する意義は何か、という議論がありました。それは自然科学や経済学その他で数学を使う人たちは別として、将来的に数学と縁がなくなる人たちが、数学をやる意義があるのか、ということです。

 ある、と私は思います。ただ、その前に、数学を量的なものと見なす考えを捨てないといけない。数学は本来的に「関係」を扱う学問です。量はその一つにすぎない。

 たとえば、ジャンケンポンというものが日本にあります。それに対応するものが外国にあるかどうか。私が確かめたかぎりでは見つからないのですが、どこでも可能だと思います。実際、ジャンケンポンで大事なのは、グー・チョキ・パーという指の形ではなく、たんに「三すくみ」の関係だからです。だから、グー・チョキ・パーのかわりに、どんなものでも代入できます。そういう規則が約束されてあるなら、頭でも足でもジャンケンポンができるのです。

 人はグーならグーという形にこだわり、そこに意味があると考える。つまり、それは石である、と。しかし、グー・チョキ・パーという恰好など、本当はどうでもいい。それらがおかれる関係(構造)が大事です。

 そのような構造を考えたとき、はじめて、グーやチョキがたんに任意のものだということがわかります。要するに、特に数学的思考とはいうべきものはない。「関係」を考えることなら、すべて数学的である。言語体系も政治的組織も精神病理も、それが関係の形態であるかぎり、数学的に扱えます。その意味で、数学的でないなら、物事を考えることにはならないでしょう。

 しかし、現にグーやチョキがなかったら、「関係」(構造)も存在しないはずです。経験的に個々のものがあるからこそ、「関係」が見いだされるのではないのか。そういう問いが、逆に出てきます。

 本当は、哲学の問題は、次のような問いから始まったといっていいと思います。それは、物があるというのと、関係があるということは、同じなのか、という問いです。たとえば、グー・チョキ・パーはそれぞれ「在る」わけですが、三すくみの「関係」そのものは、それと同じように「在る」といえない。では、その「在り方」はどう違うのか、―――。

 この問いに対して、プラトンは、「関係」は、感覚的なものと区別されるイデアとして、イデア界に在ると考えたわけです。今そんなふうに考える人はいないけれども、この区別そのものは残ります。「関係」は、物があるというのと違ったふうに、存在する。あるいは、それは無であるともいえます。なぜなら、それはどこにも存在しないからです。

 というわけで、数学、というより「関係」のことを考えると、誰でも「哲学的」になってきます。逆に哲学というものは、プラトン以来、つねに数学と関係しているのです。

 たとえば、デカルトというと、皆コギトとか神の証明とかしかいいませんが、彼は解析幾何学(つまり、図形を数の組み合わせ(コーディネート)として考えた)を発明した人です。そこで、図形が数に転化したのはこの時からです。

 ところで、このとき、はじめて、実数という考えが出てきます。図形において連続した線が点の集まりであるとすれば、その無数の「点」は、すべて数と見なされます。しかし、自然数や有理数だけでは、足りないのです。そこで、数は無理数から超越数(πなど)にいたるまで、一挙に拡張されます。われわれはそれを当たり前だと考えていますが、デカルト以前には考えられなかったのです。集合論の始祖カントールは、無限まで数として扱おうとしました。そこから、さまざまなパラドックスが生じるようになったわけです。要するに、数は歴史的に「発明」されてきたのです。

 たとえば、数えること(序数)と、存在するものと見なされる数(基数)を扱うようになることの間には、大きな飛躍があります。(たとえば幼児は数の足し算をするとき、最初から数えなおします。)この飛躍は、哲学的には大きな問題です。二十世紀の哲学者・哲学者、フレーゲ、フッサール、ラッセル、ゲーデル、ウィトゲンシュタインらは、皆、算術の問題を考えました。簡単な算術にこそ、最も難解な問題がひそんでいるのです。

 トポロジスト(位相幾何学者)は、コーヒーカップとドーナッツの区別がつかない連中だという冗談がありますが、赤ん坊は、先ず、母親を、二つ穴(目)がある形として認知するらしいです。そして、徐々に、顔を認知する。その意味で、位相幾何学とは、対象認識の段階から、幼児段階まで遡行することです。だから、幼稚と見える段階ほど、実は難解なのです。

 子供がすでに出来上がった数学を習うとき、それまでに、人類が苦労して形成した成果だけを、暗記することになります。ところが、算数、数学がわからないという子供は、むしろ、数学の諸問題に直面しているともいえるわけです。数学の系統発生を、個体発生的に経験するわけですから。そのとき、何の苦もなく前進する子供が優秀だということにはならない。むしろ凡庸です。

 たとえば、分数の足し算ができない子が多い。これは、比例を分数、そして数と等置することが難しいからです。普通、分数の足し算は分母をそろえてやれ、ということを覚えれば何とかなります。しかし、それはわかっているかどうかとは別です。

 たとえば、1対3という比例はわかりますが、なぜそれが/3と等しいのか。そもそも/3の「1」は何であるのか。さらに、それが0.3333333‥‥であるというのは、どういうことか。しかし、これらは数学の歴史においても、難しかったのです。

 私は、X>5という不等式を習ったとき、目がくらむ思いをした覚えがあります。Xは5.000000000000000000000‥‥でいいわけですが、そのとき、「無限」に出会ったわけですね。ところが、それを何とも思わないで先に進める子が「できる」ということになります。

 そこで、私は、算数、数学が「できない」人こそ、あるいは「躓く」人こそ、数学の諸問題に直面しているのだと考えるようになりました。たぶん、数学者とは、この「躓き」を一方でたやすく乗り越えると同時に、それにこだわる人のことだと思います。

 くりかえすと、特に数学的思考とはいうべきものはない。「関係」を考えることなら、すべて数学的である。しかし、人が身につけるべき思考というのは、人々が当然のように片付けることに、なぜか、とこだわることではないか、と思うのです。

 私自身は、こういうことを教えてくれる先生に出会いませんでした。出会っていたら、大分違っていたでしょう。数学が「関係」を扱う学問だということ、たとえば、恋愛の三角関係すら数学的に扱えるのだということを知っていたら。

 数学の教育者は、基礎的な疑問に対応できる人でなければならず、その人自身、数学にかぎらず、どんなことにも基礎的な疑問をもち、考えている人でなければならない、ということになります。もちろん、そんな先生はいません。

 だから、ニュースクール()は、学生よりもむしろ、先生がそういう疑問に出会いつつ考える場所ではないか、と思うのです。

)当時、設立準備をしていた教育関係のNPOの名称。

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