先ほどの補足です。 さっき、自分の頭で考え、判断する力を身につけるためには、 人々が当然と思い込んでいることに、改めて、自分の頭でなぜ?と問う能力を身につけること だと書きました。 そのためには、もう1つ、 人々が当然と思い込んでいることに、ビックリすること があるのではないかと思います。 一昨年と昨年、子どもたちと次のトンチをやりました。 1+1=? 考えられる限りの答えを出してみて、と。 そしたら、困った顔をしたのがAさん。 その正反対に面白がったのがBさんとCさん。 Cさんは、すぐ「答えは田」。なるほど、いつもこんな発想しているんのかなと感心。 これについては、50年以上前、私の体験がありました。以下です。 小学校3年生のときに、クラスの子がみんなに、 「1+1は?」 と聞き、少しして、その子はこう言いました。 「答えは1です。ここに粘土の固まりが1個あります。こっちにも、粘土の固まりが1個あります。両方の固まりを合わせれば、答えは1個の粘土になります。だから1+1=1です」 !! その日以来、私は自分は正しい数学をやっているという確信が持てなくなりました。自分がやっているのは、1+1=2と書けば単にテストで◯をもらえるだけのことではないかという疑念に襲わました。 その後、1+1は「答えはない」というのも答えだと知りました。 例えば、Cさんがいます。それが1だとします。それに、さらにCさんを足すとしたら、それが1+1です。でも、Cさんはこの世に2人といない存在じゃないですか。だからそんな足し算はできない、と。 これをCさんに説明した時、彼女は、「なるほど」という風に神妙に聞いてました。 ちなみに、こう答えたのは(親父が有名な数学者の)小学校1年生の女の子だと、数学者の森毅から教えられました。 あとになって、私は自分が小学校3年生の時に、そもそも数字の1って何のこと?という素材論(数学という織物になぞられて、その織物を構成している素材って 何なんのかを考えること)の入り口に立っていたのです。 もぢそのとき、私の背中を押して、数学の素材の意味を考えてみたらと励ましてくれる人に出会っていたら、その後の人生はすっかり変わっていたのではないかと思いました。 数学でつまづく人は、たいてい、数学の素材のところでつまづくのです。 なぜゼロという数字があるのか(ギリシャの数字でも中国の数字にもゼロはないのに)。 なぜ分数という数があるのか(小数だけでいいのに)。 なぜ、虚数という数があるのか(どうやったら二乗してマイナスの数になるの)。 なぜ素数なんてものがあるのか、 こうした数学の素材の意味が分らないから、その素材を組み合わせて作った織物、洋服を見せられても、何のことか、最後までピンと来ない。 しかし、これを体系的にがっちり教えようとするのが、今の数学教育ではないでしょうか。 それだと、なぜゼロが誕生(発明)したのかを理解し、合点するのではなく、ゼロはこういうものだから、こういうものとして覚えこみなさい、と命令されているだけではないでしょうか。 それは、権力や権威がそう言っているのだから、それを信じろ、というのと変わりません。いわゆるバカ(マインドコントロール)への道です。 そうではなくて、むしろゼロたちが誕生した歴史としてこれらの素材を見ることで、それらの素材が発明される歴史(起源)が理解でき、納得がいったとき初めてそれを受け入れるというやり方で、人は自主的に考える能力を身につけるのではないでしょうか。 教育学者の林竹二は、こう言いました。 学ぶとは、物知りになるのではなく、賢くなること。 学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわること。 ゼロを発明し、分数を発明し、虚数を発明してきた人類の数学の歴史は、人類がその時々に直面してきた困難の中で苦悩し、葛藤し、そして、それを乗り越えてきた栄光の歴史です。生きた人間のドラマです。 それを学ぶなら、それは単なる物知りで終るわけがない。人類の英知を学ぶ思いで、賢くならずにおれないはずです。 そして、それを学んだ人は、間違いなく、何かが変わるはずです。 その意味で、数学を学ぶということは、子どもも大人も区別ありません。「永遠の子ども」であり続ける限り、数学から誰もが賢くなれ、何かが変わるのだと思います。
2015年6月17日水曜日
子どもたちはなぜ数学を学ぶのか(2):当たり前と思っていることにビックリすること(1+1はなぜ2なのか?)(2015.6.22)
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