よくあることだが、家が貧しく、体力に自信がない子どもにとって、数学(算数)が心の支えとなる。なぜなら、例えば国語だったら、作者は一体ど
んな気持ちだったのでしょうなどというどうにでもなるようなあやふやな問題が出されたのに対し、数学だけは難しくとも一義的に明快な答えを導くことができるから。数学の難問だけは、金持ちのボンボンだろうが、腕力のあるガキ大将だろうが、明快な答えを出せるやつに対して頭が上がらないから。
私もそうした人種のひとりだったらしく、小学校に入学して以来、数学は私にとって殆ど唯一の心の支え=神話だった。
ところが、小学校3年のとき或る事件が起き、由来、その数学神話が崩れてしまった。
----たまたま、クラスでとんち遊びをしていたときのことだった。或る女子がこういう問題を出した。
「1+1は?」
みんなは41とか適当な答えを言っていたが、やがて、その子はこう答えた。
「答えは1です」
みんな、ぽかんとして聞いていた。その子は続けた。
「なんでかっていうと、それは、ここに粘土の固まりが1個あります。こっちにも、粘土の固まりが1個あります。両方の固まりを合わせれば、答えは1個の粘土になります。だから1+1=1です」
なあんだという声があがった。
しかし、私は、彼女の答えにビックリした。反論の余地のないくらい論理的に完璧に正しい説明だったからだ。
その日以来、私は自分は正しい数学をやっているという確信が持てなくなった。自分がやっているのは、1+1=2と書けば単にテストで◯をもらえるからではないかという疑念に襲われたから。
そこで、グラグラするような衝撃に襲われ、自分は数学で確固たる真理を学んでいるのだという幸福な自信を
失ったまま、半ば不安と半ばうつろな気持ちで、ただ肩書を手に入れるためだけに、受験のためだけに引き続き数学をやってきた。 この屈折した屈辱の感情は解かれることなく、ずっと続いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように、真理と肩書とに分裂した私の心は、その後25年経ってから回復の一歩を見い出すことができた。それが33歳のころ読んだ数学者遠山啓の「無限と連続」という本だった。
この本の中か
ら、私は、カントールの無限集合の足し算が、まさに私をずっと不安に陥れてきた1+1=1の世界を実際に証明するものとして存在すること、そして、数学においては、
1+1=2となる世界も1+1=1となる世界もともに認められるのだという画期的なことを教えられた。
この経験は一体何を物語るものだろうか----その謎めいた経験が私を数学に惹きつける。
恐らく、我々にとって「世界」はないのであって、あるのは「世界観」とそれに基づいた認識・経験だけなのだ。
だとすれば、ゲーデルの不完全性定理(※)が示すように、今、我々を支配している「世界観」の正体とは何かを改め
て徹底的に再認識する方法のひとつとして、数学が今なお極めて有効な武器であることを感じている。それが、非力を重々承知の上で、なお引き続き数学に執拗
にまとわりつきたがっている私のスタンスである。
(※) チェコ生れの24歳の数学者クルト・ゲーデルが1930年に数学的に証明した定理で、これによって「いかなる体系もその体系の中では決定不可能な命題が存在する」ことが証明された。
つまり、体系なるものは現実を離れてそれ自身で自立することが不可能であることが証明された。この定理に対し、オッペンハイマーは「人間の理性一般における限界というものの役割を明らかに示した」と評した。
0 件のコメント:
コメントを投稿